トピックス-17



vol.4

定期検診で「胆のうに9mmのポリープがある」と診断され大阪中央区扇町にある北野病院で再度検査(エコーとCT)を行い胆のうに2cm、肝臓にもポリープがあるとのことで内科から外科に回され、検査(闘病記vol.1)手術(闘病記vol.2)が必要とのことで入院。そして退院と順調にいったかのようにみえたが・・・その後を息子による手記と記録(2002年10月4日〜2002年10月28日)を「闘病記vol.4」として記載したものです。

緊急入院編-(下)

  2002年10月4日 〜父が倒れた日〜 (下)

どれだけ待たされたのだろう。

父は救急患者の搬入口がある処置室から、複数名の看護婦と医師が取り巻いて地下のオペ室へ運ばれていくのを目撃した。

もどかしいという感情を隠せなかった。すでに二時間近くを処置室で過ごした父。もっと早くに緊急オペに取り掛かれたはずだという私の見解は、医学の常識を知らぬものの浅知恵だろうか。

「お父さん、大丈夫かな」

 母は叔父と合流した後も涙を絶やさなかった。

 私達にとって父の再入院という事態は、まったく予想だにしない出来事であったから、私も母も叔父も、そして手術に向かった父自身も、何が起きているのか理解は出来なかった。

16:15頃、手術開始の旨を救急の看護婦さんが告げた。

 それからが、とにかく長く感じられた。私達がいた一階の救急来診室の前にある長椅子は、私達母子と叔父の他にも、色々な人々が家族や知人の誰かの生還を待っているのだ。

 泣く母は相変わらずで、叔父は腕組して黙している。私はというと、感情がやがてとても冷淡な方向へ変わっていくのを感じた。

 父が助からない可能性も考えなければいけないと思った。尋常ならざる出血量は、私をそう覚悟させるのに十分だったし、病院に運ばれるまで、そして病院に運ばれてからもずいぶんと時間が過ぎた。

18:00未明。集中治療室のある階に移る様、救急の医者が説明。

 母を支える様に叔父が連れだって集中治療室前のエントランスへ向かった。

 私は呆然と、医師の説明を反芻した。

「どうなんです?」

「処置はおおかた終わりました。とりあえず、出血は止まりました」

 医師も私も、疲れた顔で会話した。

「まもなく、集中治療室に運ばれます」

「ICUに?」

 集中治療室前の待合場に移ってから、本当の過酷が始まった様だ。

 救急に指定されているこの病院には、様々な症状の患者が運びこまれていた。ベンチに腰掛ける老夫婦、親戚一同であろう顔ぶれ。会社の同僚なのだろうか。そんな人々の中に、無邪気に戯れる小児だっていた。

 何の説明も無いまま、時間だけが過ぎて行く。すでにここへ来て三〇分が過ぎた。待合場にいる様々な顔ぶれも、いつの間にか変わってゆく。

 そして、一時間が過ぎた頃。

 たまりかねた私は、待合場と集中治療室をへだてるドアにつけられたインターホンで、父の現状を問わずにはいられなくなる。

「先ほどオペ室に運ばれた段の家族のものです。ここで、待てといわれたんですが」

 インターホンの先に聞こえる乾いた女性の声は、まことにプロフェッショナリズムというべき落ち付いた声だった。看護婦さんのものだろう。

「段さんの……間も無く、こちらのICUに運ばれてきます」

「……」

 母の顔から、血の気が失せていた。未だに泣き止む事は無い。こう言うと、自分が非人間に思えてしまうが、取り乱したままの、そして考える事を忘れた母を、憎く思った。

「お父さん、大丈夫だよね?」

「わからない」

「大丈夫よね?」

「医者じゃないから、わからない!」

 叔父の仲裁が入るまで、何度もこんな問答を繰り返した。

 以前の父は確かに、難関の手術から生還した人だった。あの時も不安な気持ちでいっぱいだった。でも、あの時には楽観があった。手術が終わってから、まさか直ぐに死ぬという事は考えていなかったから。

 しかし今は違う。叔父の言葉を借りるなら「死のふちで自分と戦っている」のだろう。

叔父はそう言って、母を励まし続けていた様に思う。そして、何度も幸運が続くとは思えない自分が、ここにいる。

 私は内心に、別の事を考えていた。退院して帰ってきた日の父。まだ入院中だった頃の父。先の手術の時の父。まだ元気だった頃の父。過去を振り返れば、父が助かる事は無いような、そんな気がしていた。そう思ったのは、待ち遠しく集中治療室に通されていく、様々な人々を見送っていた私達に、主治医から呼ばれた時だった。

「今夜が峠です」

――なんて月並みな。

もっと他に言い様があるだろうに……。そう思わずにいられない。

 だがしかし、父のものであろう血に染まった白衣を着た主治医は、私の目を見て答えてくれた。その目が、気を確かにと声をかけてくれたように思った。

 いや、もしかしたら本当にそう口にしたのかもしれない。私はその前後の記憶があいまいで、覚えていない。というのも、その後になって手中治療室に通された私達家族にむけ、父が発した言葉によって私は何もかもの思考を、吹き飛ばしてしまったからである。

2040頃 集中治療室で父と面会。目を覚ました父は、私に一言告げる。

 こちらへといって主治医は寝台に横たわる父の元へ私達家族を誘ったが、そこに何とも言い表しにくい顔をした父がいた。どうやら意識はあるらしかった。

 目はうっすらと開いており、まぶしそうなのか、あるいは焦点が合わないような顔をして、母の顔と叔父の顔を見比べていた。そして「あなた」とか「兄貴」とか、二人は父に声をかけていたが、私は一番手前にいて、皆を眺めているだけであった。

 しかし、ひとしきりして父が見たのは、私の顔だった。

「お前に迷惑をかけたな」

 絶句だった。

 今まで、そんな言葉を父から聞いた事は無い。

私のとっての父は、以前は完全無欠な人間の様に見えていたし、父がポリープだ吐血だという事態になっても、弱音を吐くような人間には見えなかった。

「命拾いだよ。よかったね」

 私はそう答えるのが精一杯だった。

 今の私には、父は弱い人に見えた。一度入院して、腹を切った父は、老けた様に思えていたが、今の顔は尚更だ。いや、青白い顔をした父を改めてみた時、不謹慎だがもういままでの父ではないのだと実感した。それくらい別人の様に変化して見えた。

 父はここで助かっても、大長寿大往生とはいかない、そう思った。

 もちろん、仕方の無い事なのだが。

 そして、数分にしかならない面会は終わった。

 改めて主治医が、色々な説明をしたのを覚えている。

「今夜が山になるでしょう……」

「吐血は止まったのか?」

「いいや、断続的に今も吐血、下血を繰り返している。とにかく、何か緊急の事態があれば連絡します」

 そして私と母と、叔父は家路についた。

 別れ際も、叔父は母を励ましつづけた。

 恥かしい話し、待っている間中を騒ぎ、鳴きわめき続けた母を、鬱陶しいとは思っても、慰める気にはならなかったので、叔父に助けられた気がした。本当に叔父が言い人に思えた。私自身は、寡黙になっていた。

 帰りの電車の中、私は十月初旬というのに、ティーシャツ一枚で病院まで駆けつけていた事を思い出した。夜半の電車の人込みの中で、視線が私の服に集まっていた。

 白地のティーシャツは、父の血に染まっていた。

 喚く母は「父さんは大丈夫だよね」とか「父さんは不死身だから」とか、母は小さな声でずっと言っていた。だが正直、母の事よりも自分自身に対する事、後悔の念の方が大きかった。

 もう少し早く発見できれば……。

 もう少しやり様があったのでは……。

 その思いは、今も変わらない。再び生還した父を見てやはり時折、後悔の思いがよぎる事があるのだ。

 どういう訳か、目をすぼめて父が物を見ることがある。父は視神経をわずらったらしく、目のピントが合わないという。長い時間、脳に血が回らなかった為だとか、そんな事を今となっては笑い話にする父がいた。

 詳しい事は聞いていない。聞けないのだ。

[父の日記より]

目がさめると、病院のベットの上。突然か吐き気がして、看護婦さんに了解を得て横になったままで吐血。苦しい!今、何日なのか?何時なのか不明。そしていつの間にか眠りに落ち、今後は下痢(下血)これも傍にいた先生にに了解を得て・・・こんなことを何度繰り返しただろうか?あらためて目がさめると心配そうな妻の顔が見える。息子、弟夫婦、母の顔も視野に入る。

妻が声をかけてきて状況の説明を受けたが、何が起こったのか全く理解できない。ここに来るまでの出来事は全然覚えていない。息子の顔が目に入り「お前に迷惑をかけたな」といった言葉をかけたように記憶している。

酸素マスク、心電図、輸血と9月13日金曜日の手術後と同様の状態だ。「ここは何処?」とたずねると北野病院のICUとの事。なんだか目の調子がへんだ。眼に入ってくるカーテンレールが二重に見える。今は、その事は大したことではなく何といっていいのかわからないが、とにかく、身体全体が普通ではない。

10月 6日(日) 酸素マスクがとれる。気分はずいぶんいい。血圧は安定している模様。9月に入院していた時の看護婦さんが見舞い?に来てくれる。「私がわかる?」の問いに、看護婦さんの名前を呼ぶと励ましの言葉をかけてくれる。本日、レントゲンや採血が行われる。

10月 7日(月) ICUから一般病棟へ移る。 9月に入院していた時の病棟へ移る。個室だがどのあたりの部屋なのか全くわからない。妻に病状の事を聞く。要領を得ないが十二指腸に穴が開き吐血をした模様。先生の話だと、体の血液が入れ替わる位の量だったようだ。

検査入院のときに行った右足の付け根からカテーテルを通し、血管造影の方法で血管に栓をした模様。本日もレントゲンや採血がおこなわれ、他にCTとエコーの検査も行われる。

こんな状態で元の体に戻れるのだろうか?不安になってくる。仕事に復帰できるのだろうか?とか、頭の中がネガティブな妄想でいっぱいになる。

10月 8日(火) 体調もすぐれず、ネガティブな妄想を懐いてる性か、気持ちが弱気になってくる。今日もレントゲンが行われる。午後に、先生からの説明があるが出血の原因はまだ掴めていない模様。

10月 9日(水) 昨日の夜から、特に気分がすぐれない。目の焦点も合わず、最悪の状態。目をあけると疲れるので目を閉じたままの一日。毎日欠かさず妻が病院へ来てくれる。喧嘩もよくしてきたが、本当に心配してくれていることが伝わってくる。ありがたいことだ。

10月10日(木) 先生(主治医)が首からの点滴をするががうまくいかず日を改める。この時、妻と息子は病室を出ていたが室の中から私の喚き声が聞こえてきたとの事(自分には記憶がないのだが・・・)。相当、痛かったのか?!恥ずかしい話だが下血の為、今日までオムツをしていた。それも本日とれる。

10月11日(金) 再入院から一週間。やっと水が飲めるようになる。気分もまずまず。会社のT さんとOさんが見舞いに来てくれる。この日あたりからお見舞いラッシュ!弟夫婦もチョクチョク来てくれる。

10月12日(土) 体調は良好。看護婦さんより、「今から、おしっこの管をとります」とのことで、管をはずすが、尿道の途中で止めてしまう。とても痛い!「どうしよう?」と看護婦さんから、心細い言葉が返ってくる。「一気に抜いてください」とお願いするが、先生を呼んできますと病室を出て行ってしまう。スッポンポンのままでのこされた私は、顔から火が出そうなくらい恥ずかしい格好で先生を待つ。先生がこられて一気に抜かれ、一瞬激痛が走るが事なきを得る。

特に親切にしてくれた看護婦さん(しのぶさんという)が「車椅子で室からでてみる?」といってくれたので「お願いします」といって車椅子に乗る。車椅子は生まれて始めての経験。テレビドラマなどでよく見る光景である。体重69キロ(ピークから約15キロ減)。血圧110−70。体温36゜

10月13日(日) 本日は気分も良好!やっと歩けるようになる。シャワーも解禁。我が社へ出向予定のOさんと家族が午後、見舞いに来てくれる。血圧120−70

10月14日(月) おなかがすいて食欲もでてくるが、相変わらず点滴生活。ジュースを少々飲む。血圧110−70

10月15日(火) 午前中は、胃カメラ。本日は主治医が担当。私は病院で何が嫌かというと「胃カメラ」を飲む事でこればかりはいつまでたってもなれない。このことを先生はご存知なのでカメラのファイバー部分にスプレー式の麻酔剤をたっぷり振りかけてくれている。その時看護婦さんが「先生使い方が違いますョ!」と声をかけたが、先生は「いいんだ!この人には」といった演出をかけてくれた。おかげですんなり喉を通すことが出来た。多分心理的な効果だと思う。カメラの映し出した映像をみると、十二指腸の穴はふさがっており、穴をふさいだ時の突起物がでていた。午後はCTと検査の日。本日、個室から二人部屋に移る。私の部のマネージャーが入院との知らせが入る。40代の体にはガタがくるものなのか?今年は同僚が入院や死亡の知らせがやたら入ってくる。

10月16日(水) 本日昼食より、重湯。当然夕食も重湯。病棟を歩くが視界の右下は二重に見え、目の感覚がおかしい。 
10月18日(金) 会社のA さんとYさんが見舞いに来てくれる。

10月19日(土) 体調は良好。やっと点滴がとれる。本日より、食事も三分粥。血圧110−70

10月20日(日) 午後に江戸幸マスターが再びが見舞いに来てくれる。

10月21日(月) 視界の右下が二重に見える目の感覚の異常を訴えていたことから眼科検診を受ける。眼科の先生の話だと大量の失血した時に脳に血液が一時的に行かなっかた事によるものだろうとの事。時間をかけて治療するしかないとの事。

10月22日(火) 眼科検診の結果から脳のMRIをとる。妻の母、姉、叔父が見舞いに来てくれる。病院へ持ち込んだノートパソコンをやっと使う気分になってくる。仕事の今まで貯めこんだ企画をぼちぼちまとめることにする。また、これまで浮かんできたメロディをパソコンにインプットする作業を始める。看護婦さんに作った曲のアレンジから・・・

10月24日(木) 午前中は、胃カメラ。本日の担当は主治医と違っていた。カルテをみて「あの時の・・・」体中血だらけ大変だったらしい。 

10月25日(金) 外泊の許可が出る。

10月26日(土) やっと自宅に一時的とはいえ帰ることができる。タクシーで帰ったが車の中から外をみると風景に目がついていけず車の運転なんて出来るようになるのだろうか?と不安になってくる。

10月27日(日) 自宅のパソコンでフロッピーに落とした看護婦さんに作った曲のアレンジと詞書く。看護婦さんの名前にちなんで「忍恋」とつける。D‐95 の誕生である。※D‐95 とは私が曲を作り始めてからの連番で、Dan Muyonosukeの「D」をとっている。加山雄三さんはモーツアルトのケッヘルナンバーにあやかってK‐○としており(Kayama の「K」にもかけている)、ちなみに K‐18 は「君といつまでも」。 「忍恋(D‐95) 」はMDに落として病院へ持ち帰る。病院へ戻ると会社からKさんやその他何名かが見舞いにこられていた。

10月28日(月) 10月29日の部長回診後に退院と決まる。看護婦さんに「忍恋(D‐95) 」のMDを渡す。この曲はこのHPで聞くことができる。

10月29日(火) 部長回診後に栄養指導を受けてめでたく退院。


今流れてる曲は入院中に看護婦さんの為に作詞・作曲・編曲した「忍恋」です。
デュエットで歌える演歌風にまとめてみました。
 
闘病記 緊急入院編


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